慈善のジレンマ
2022年2月にウクライナでの紛争が始まって以来、あらゆるメディアでウクライナ人民に対するロシア軍の残虐な迫害が連日報道されるようになった。それに伴い、インターネット上ではウクライナへの支援を呼びかける募金活動の広告が盛んに見られるようになった。
ウクライナは必死だ。この戦争に負ければ、ウクライナというネイションの未来が揺るぎかねない。かつてのように、ロシアという暴君の傀儡になってもおかしくない。だから、ウクライナはあらゆる手段を使って支援を募り、総力をかけてロシアによる侵攻を食い止めようとしているのだ。 その「手段」には、世界各国で実施されている募金活動も含まれる。我々が出す10円、100円が、祖国防衛のために使われる。「難民のために募金を」と謳って募ったお金も、もしかしたら戦争遂行のために使われている可能性は否定できない。
今回の紛争は、どんな背景があってもロシアの一方的な侵攻によって引き起こされたものであるから、ウクライナへ支援することには何も責められるべき要因はない。ロシア政府による独善的な軍事行動が、世界の経済に混乱をもたらした。この混乱を是正するためにも、早く戦争を終わらせ、かつできるだけ罪のない一般市民の犠牲を最小限に抑えることに我々も協力すべきである。ウクライナへの支援は、そうした人道的連携の一環であろう。
私も、そうした呼びかけを見る度に、ウクライナへの支援への支援を検討する。しかし結局、私はいつもウクライナへの支援を躊躇してしまう。何故なら、ロシアにいる友人が、戦争が始まって以来、音沙汰がなくなったからだ。しかも彼は軍人だ。ウクライナへ駆り出された可能性は大いにある。先ほども述べたように、ウクライナへの募金が戦争遂行のために使われている可能性は否定できない。すなわち、私の善意が、私の友人を殺してしまうかもしれないのだ。そう考えると、私はなかなかお金を出せないのである。
あまり認めたくはないが、人はそれぞれ命の優先順位を持っていると思う。誰しも自分が一番可愛く、身内、友人、上司や先輩、知人、他人というように優先順位がつけられているんじゃないか。自己犠牲や忠孝を重んじる儒教的な思想では、義があれば身を挺して主君や親、そして民衆を守ることが美徳とされた。時には身内をも犠牲にして人々を救うことも理想とされた。だが、それを考慮しても…友人を見捨てる事は気持ちの良いものではない。
私は諸子百家の中では、墨子の思想に共感している。どんな人でも平等に愛し合うことで、互いを利するのがその理想である。そんな墨子の思想に対し、儒家たちは身近な者から愛を拡げていくことを理想とした。今の状況を考えると、やはり儒家たちの思想の方が理にかなっているのかもしれない。そんなことをつくづく考えさせられる、今日の世界情勢である。