信仰の形と国際問題

 日本の神は、基本的に人を祟る存在であり、「タタリ」の語は神の顕現を表す「立ち有り」が訛ったものであるという折口信夫の主張が定説となっている。「祟る」とは謂わば神にとっての病原性の病のようなもので、人を利すると考えられているような神でも、適切に祀らず粗末に扱えば人に神の力を及ぼすし、どんなに極悪な神でも、丁重に奉れば人を祟ることはいずれなくなる。また、「八百万の神々」という言葉があるように、どんな物にでも神は宿るし、ヒトを含めどんな生物でも神になり得る。もちろん、そんな神々も人を祟ると考えられている。老樹にまつわる祟り伝承や「猫を殺すと七代祟る」といった俗信、平将門や菅原道真に代表されるような強い未練を持つ人物の霊が怨霊となって人々を苦しめるという伝説は、そうした「どんな物、どんな生き物でも人を祟る神になりうる」という日本独自のアニミズムに基づく信仰の形態である。つまり、日本各地で祠や神社という形で様々な神が祀られているのは、必ずしもその崇拝の対象を強く賞賛し憧れているわけではなく(もちろんそうした崇拝を持っている者もいるだろうが)、本来は神の顕現である祟りを畏れ鎮めて封印し、祀り上げることがその祭祀の根底にあるのだ。敵であれ味方であれ、善人であれ悪人であれ、祀るべき神は祀る。島津日新公の『いろは歌』に記載されている「回向には 我と人とを 隔つなよ 看経はよし してもせずとも」という和歌は、この日本独自の性格が中世以降の武士道の精神にも影響を及ぼしていることを示唆している。
 このようなアニミズム的な信仰の形態が、日本における信仰と、ユーラシア大陸における信仰との大きな違いである。先に述べたように、日本における信仰とはアニミズムに基づくものであり、その本質は祟りを畏れ鎮めることにある。それに対しユーラシア大陸の信仰は、特定の対象に対して愛を持って敬意を払い、強く賞賛するものである。そもそも、日本における神とは、欧米における”God”を必ずしも意味しない。”God”はユダヤ教やキリスト教やイスラム教における絶対神という意味合いが強く、「八百万の神々」と言われるような日本の神と結びつけると語弊が生じるのである。どちらかといえば、日本における神とは欧米における「精霊spirits」に近いと考えられている。
 このような信仰の形の相違が、グローバリズムの急速な進展に伴って国際社会に混乱をもたらしている。その最も顕著な例が靖国神社問題であろう。すなわち、日本と東アジア諸国の認識の相違が、この問題の根本的な原因となっている。靖国神社追及の急先鋒である中国人にとっては、「戦犯としてヒトラー同様に人々に憎まれるべき大日本帝国時代の指導者たちが靖国神社で神として祀られているのは、日本人たちは表では先の大戦について反省の弁を述べておきながら、裏では戦犯を崇拝し先の大戦での虐殺を正当化している証左じゃないか」と考えざるを得ないのである。何故ならば、孔子ら儒教の聖人たちや関羽を神格化した関帝が中国各地で祀られ崇拝されているように、彼らにとって「祀る」という行為は尊敬すべき人物を崇め奉り、その力にあやかろうとする行為に他ならないという認識だからである。彼らには、祭祀する=祟りを畏れ鎮めるという発想がないのだ。
 もちろん、靖国神社に参拝する日本人の中には、「先の大戦は聖戦であり、野蛮な異邦人を誅した先人のように自分もなりたい」という愚かな思想を持つ極右の軍国主義者や、古い考え方から脱することのできない教条主義的な老人もいることだろう。しかし本来は、というより日本人の信仰の根本には、先ほどから述べているように、祀られている神の祟りを恐れるという独特のアニミズム的精神があるのだ。靖国神社における祭祀も同様である。かつての戦犯たちを靖国神社に祀るという行為は、必ずしも軍国主義を肯定しているというわけではなく、滅私奉公が明日の日本のためになることを信じ、また死んでも靖国という桃源郷で友人と再会できるはずだということを信じて儚く散っていった先人たちの魂を鎮め、後世に祟りを為さないようにとその冥福を祈ることにこそ意義があるのである。中国人にはこのような発想がないこと、日本には独自の信仰があることを、それぞれ日本人と中国人が理解していないことが、この問題を引き起こしているのだ。
 信仰とは謂わばその民族の根本的な思考回路である。同じ国内でさえも、山を一つ越えただけで、また川を一つ隔てただけで、信仰の対象が変わって、その思考回路に大なり小なりの違いが生まれる。ましてや、海を隔てた中国の人々の思考回路は、日本人のものとは全く異なるはずである。だから、互いに理解できないのは仕方ないのかもしれない。しかし、理解できないのにも関わらず理解した気になって、特定の民族の中に「野蛮たる敵性外国人」のイメージ像を描き、その民族主義的な思想を伝播させることは、忌むべき紛争を生む。これは「仕方ない」では済まされないことだと思う。ましてや、この弊害を無くすために、安易に地域ごとの独自の信仰を廃して信仰のあり方や崇拝の対象を統一せんとするのは言語道断である。
 先ほども述べたように、信仰が異なる民族同士では、たとえどんなに地理的に近い民族同士であったとしても、互いのことを本当に理解させることは困難を極める。異なる民族同士で円滑にコミュニケーションをとるには、このことを須く良く承知しておくべきであろう。